由里りんのぷらいべ~となお時間

白石由里が、たびてつの記録、ヲタの記録、その他ぷらいべ~と(笑)な出来事をいろいろと語るブログ♪

『経済学・哲学草稿』

若きマルクスがパリ滞在中に執筆したものの未発表のままの草稿が、マルクスの死後に発見されて公刊されたのが『経済学・哲学草稿』です。マルクス自身は結局未完のままで投げ出したので、書名ももちろんありませんでしたが、1932年に初公刊された際に編者が『Ökonomisch-philosophische Manuskripte』(注:最初の文字はドイツ語の“ウムラウト”がついたOです。文字化けしてたらゴメンナサイ)と題名をつけています。

学生時代に受けた授業の中でマルクスが出てきまして、『経済学・哲学草稿』についても扱っておりました。その当時、なんとか読んでやろうと思って、岩波文庫版の『経済学・哲学草稿』を買って読もうとしたのですが……挫折しました(苦笑)。当時は哲学的な言い回しをよく理解できていなかったこともありますが、そもそもマルクスが書いたドイツ語原文が難儀だと言われておりますし、岩波版の訳文も日本語としてわかり難い文章でした。

2010年に新訳の『経済学・哲学草稿』が、写真のとおり光文社古典新訳文庫から長谷川宏さんの訳で出版されており、アマゾンやらブログやらの書評でわかりやすい訳として出版されているとの情報を得ました。最近ブログにも書いたとおり、哲学の勉強をしたりもしまして、そのタイミングでこの本の情報を得たので、読んでみる気になって購入しました。

んで、読んでみますと、少なくとも岩波文庫と比べれば、日本語として遥かに読みやすくなっております。長谷川さんのこの訳が、学術的に“正確”な訳かどうかという議論はあるかもしれませんが、それを抜きにしてみた場合、長谷川さんの訳は、日本語としてはずいぶん読みやすくなっているのは確かです。

…といっても、「読みやすい」というのは、あくまで岩波文庫版と比べての話であり、こういった哲学書の訳書としてみた場合の話でありまして、あくまで相対的な意味においての「読みやすい」にすぎません。そもそも、もともとが若きマルクスの難解な文章を訳したものです。なので、おそらく今までの訳と比べればもっとも読みやすい訳だとは思いますが、日本語の文章としては決して読みやすい本ではありません。ハッキリ言ってしまえば、読み難い、難解な内容です。「疎外」「外化」「類的存在」「揚棄(※本によっては止揚と訳す本もあり)」)…といった、哲学用語やマルクス独特の用語が出て来るだけでも、難解な本です。安易にお勧めは決してできません。マニアックな本です。

私は、これらの用語の意味を一応頭に入れながら読みましたが、それでもかなり骨のある内容でした。しかし、岩波文庫版と比べて訳文は日本語としてかなりこなれており、読みやすいです。難解ながらも丁寧に読んでいきまして…第三草稿の第3節のヘーゲル批判のところや、付録のヘーゲル精神現象学』からの抜き書き(※岩波文庫では第四草稿として扱われてます)の部分については、非常に哲学的な内容すぎることもあってか、私は正直言って殆ど理解できませんでした。しかし、他の章や節は、どれだけ深く理解できたかは自信がありませんけれども、6〜7割は意味を理解できて読めたように思います。

この本を読むと、当時の労働者のおかれた苦境を中心とした社会問題が伝わってくるのですが、現代日本社会の貧困の問題に重なるのですよ。外国の、それも160年以上も前の書物なのに、あたかも現代の問題として読めてしまう…いつのまにか現代社会の論評として読んでしまっていることに気付き、私は愕然としましたね。マルクスは既に160年以上も前に、現代日本の貧困の問題を結果的に見抜いていたということでしょうか。それにもかかわらず、現代の政治家や経済学者たちはマルクスの指摘を決して生かせてはいないのです…。現代の派遣労働者の問題をはじめとする格差社会の問題…マルクスの言うとおり、労働の疎外が起こっていることは、もはや言うまでもないことでしょう。

そんなわけで、驚嘆しつつこの本を味わったわけでして…。まあ、マルクスとかを論じるとおそらく、左翼なんじゃないかとか、共産主義なんじゃないかとかいろいろ誤解されそうですが(笑)、そもそも私、経済学とかマルクスとか全然詳しく無いので、その心配は御無用です(笑)。ただ、哲学史に名を残す思想家って、すげえなあって思いましたよ。160年以上も未来の日本の格差社会の問題に通じるだけのしっかりした眼力をもっていた思想家ってことですからね。

んで、ちょいマニアックな話になりますが…。この長谷川さんの訳書は、上述のとおり従来訳と比べて遥かに読みやすいので、以前挫折したことのある方が読み直すのにはおススメです。

ただ、不満なのは、まず訳注が無いということ。まあ、訳注が必要かどうかという議論はあるかもですが、訳に際しての議論が起こる点などに説明があるといいのかなとの疑問はあります。訳注が無いおかげでかえって吹っ切れて読めるという利点はありますが。(実際却って読みやすい)

あと、もう一つの不満点は、マルクス自身によるページ番号を記してほしかったこと。マルクスは当時経済的に豊かではなく、ノートブックも買えぬ有様だったので、この草稿は包み紙用紙を折って作った手製のノートブックに書いてあるのですが、その手製のノートブックにマルクスは自分でページ番号をつけておりました。第一草稿の最初の3つの節は、マルクスはノートを2本の縦線で3分割し、3つの節を対比させる形で並行して記述しています。このような事情を考えると、マルクスがノートに付番したページ番号を記してもらわないと、この3つの節の連関がわかりづらいです。また、この草稿は一部が紛失しているなど不完全な部分もあることから、ページ番号がどうなっているかは重要です。できれば改訂する際にページ番号はほしいところです。

とまあ、注文もつけましたが、訳文が読みやすいのは歓迎すべきところ。日本語としてわかりやすいことが、必ずしも原文の意味を忠実に示しているとは限りませんが、そう思う人は原書を読めばいいわけです(笑)。哲学者さんたちの言い分はいろいろあろうとは思いますが、こんなマニアックな古典を、一般社会人に読めるようにしてくれた長谷川さんの仕事に拍手を送りたいところ。また、「光文社古典新訳文庫」の「新訳」のコンセプトに拍手を送りたいところです♪