由里りんのぷらいべ~となお時間

白石由里が、たびてつの記録、ヲタの記録、その他ぷらいべ~と(笑)な出来事をいろいろと語るブログ♪

哲学とはどんな学問か? −『図解雑学 哲学』より−

2月15日の記事に、貫成人さんの著書『図解雑学 哲学』(ナツメ社)を読んでいることを書きましたが、読み終わりましたので、今回はそれをふまえて「哲学とはどんな学問か?」ということについて考えてみたいと思います。

「哲学」って、よくわからない学問ですよね。「哲学とはどんな学問か?」「哲学とは何か?」という問いに対しては、いろんな本でいろんな考え方をそれぞれの著者が提示していると思います。私はそれらを全部読んではいないのでわかりません。また、ネットでも様々な考え方が示されてますが、よくわかりません。

貫さんの本では、冒頭の序章に一つの考え方が示されております。それを引用しながら「哲学とはどんな学問か?」について私なりの理解を書きたいと思います。

2月15日の記事にも書きましたが、哲学ってそもそも名前を見ても何についての学問かわかりません。たとえば数学なら「数についての学問」と大抵の方はすぐわかります。ほかにも政治学、生物学…いずれも「名は体を表す」的に明快です。しかし、「哲」って言われても、何のことかわかりません。ウィクショナリーで「哲」を調べると「1.賢い。物事の筋道が通っていること。2.賢い人。道理をわきまえている人。」…だから何なの?…ってなりますね(笑)。要するに、学問名が体を表して無いわけです。

貫さんの著書をここで引用しましょう。

>いわゆる哲学者の書いたものをのぞいてみても、内容は千差万別である。ある者は自然について論じ、ある者は神について考察し、別な者は認識について何か言っている。言語や社会を問題にする者もいる始末だ。哲学の主題は全然バラバラなのだ。

確かにそうですよね。我々が哲学って何なのかがわからなくなる理由はまさにここでしょう。哲学者によって論じている対象がバラバラなので、一体何についての学問なのかが本当にわからないのです。

しかし、貫さんはすぐ次にひとつの考え方を示してくださいます。引用しましょう。

>けれども、バラバラのように見えて、彼らは実は常に同じ事を問題にしている。自然や神や認識は、それぞれの時代に「すべてを説明する原理」と考えられたものなのである。このことは、「モノづくりの哲学」「料理の哲学」などというときの「哲学」が、何かを行うときの基本的考え方、原理原則をあらわすことからもわかる。

…この説明を読んだ時、思わず私は「なるほど!」と思いました。そして貫さんはすぐ次で「全体にかかわる普遍的原理を探すのが哲学」との見出しで、このように書いておられます。

>ただしふつうの言葉遣いの「哲学」と、哲学者の言う哲学とのあいだには大きな違いが二つある。第一に、ふつうの「哲学」がモノづくりや料理など限られた範囲での原理であるのに対して、哲学者が問題にしたのは、人間や社会、自然や道徳など「すべて」を説明する原理、全体にかかわる原理だ。第二に、ふつうの「哲学」が自分や顧客など特定の人に通じればとりあえず役に立つのに対して、哲学者はすべての人に通じる「普遍的」原理を探そうとする。ところが、その全体にかかわる普遍的原理をどこに求めるか、「すべて」と言ってもどこまで入るのかが時代や哲学者によってさまざまだったのだ。

ここまでの説明で、貫さんは、読者がなんとなく把握している「ふつうの言葉遣いの哲学」を引き合いに出すことによって、「全体にかかわる普遍的原理を探すのが哲学」として、わかりやすく「哲学」についての説明を展開しています。また、哲学者の論じるテーマがバラバラな理由について「すべて」の範囲が時代や社会背景に依存するためにバラバラなのだということをわかりやすく説明しています。

>まず、現世を超越した絶対的存在、たとえば神によってすべてを説明しようとするやり方があった。

なるほど、哲学で神について論じるのは、このような理由があったわけですね。

>ところが望遠鏡で天体を観察しているとき、望遠鏡そのものに狂いがあったのでは正しい観察はできない。絶対的存在がいかなることかを述べようとしても、それがいかなるものなのかを認識するわれわれの能力に問題があったのでは、元も子もない。そこで、真の存在がいかなるものかを問題にする以前に、「認識」を問題にしなければならなくなる。

>認識が問題になると同時に、その主体である人間も重要になる。ところが人間にとって認識がすべてというわけではない。人間の在り方を問題にする中で、身体や社会との関係、あるいは人の考え方を決定する無意識などが発見される。

>認識された内容は言語によって表現されて初めて、他の人によって客観的に検証できるものとなる。そこで言語への問いが哲学の問題として浮上する。

…このようにして、貫さんは、いくつかの哲学の主要テーマについて、なぜそれが主要テーマになっているのかを説明しておられます。

まあ、ここから先は、貫さんの本をお読みいただくのがよろしいかと。
貫さんの本で述べられている「全体にかかわる普遍的原理を探すのが哲学」との考え方をヒントにすると、今までよくわからなかった「哲学とは何か?」という疑問がとりあえずとけますので、哲学という学問が一気に理解しやすくなりました。

ただ、貫さんのような説明の仕方は、どうやら決して哲学の入門書などに必ずしも載っているわけでは無いようです。
貫さんのこの説明の仕方は、貫さんのオリジナルな方法なのでしょう。だから、哲学を理解するための一つのヒントという程度に考えておくのがいいかと思います。
ただし、極めてわかりやすいことは確かです。哲学の専門書(入門書を含む)での説明として妥当かは私はわかりません。ただ、「図解雑学」シリーズでの説明としては、極めて秀逸なわかりやすい説明ではないでしょうか?

哲学というのは、もとは学問一般を指すものだったといいます。いや、この説明は正確ではないでしょう。日本語の「哲学」ではなく、「philosophia」(古代ギリシャ語)がそうだったと言うべきでしょう。人間という生物が、身の周りの様々な事象に「なぜ?」「これは何でできている?」などの関心をもち、研究していった行為…つまり、身の回りのあらゆるものに関する「なぜ?」を追求する行為…これはかつては現代のように「●●学」と細分化されておらず、単に一つの名称「philosophia(知を愛する、愛知)」…現代日本語で言うところの「学問」と言われたのでしょう。要は、人間はかつては、分野ごとに専門分化が一切されていない、身のまわりのあらゆる事項を単に「philosophia(学問)」として研究していったのでしょう。つまり「すべてを説明する原理」を追求していったわけです。そして、すべてを説明する原理を追求する中で、たとえば数についての学問が専門化したものが数学、神についての学問が神学や宗教学、自然についての学問が科学(さらに細分化して物理学や生物学など)…と分化した中、「全体にかかわる普遍的原理を探す」部分がいわゆる狭義の「哲学」として、相対的に他の学問分野と別の学問「哲学」として扱われるようになったという感じなのだと思います。

こうして考えると、哲学ってそもそも、学問する行為一般をさすっていうことがよくわかります。貫さんの考え方は、素人にこの点のさわりの部分をよく説明していると思います。

現在、ラッセルの著書(訳書ですが)である『Problems of Philosophy』(邦題:『哲学入門』)を講読中ですが、「哲学って何?」という疑問を全く拭えぬまま哲学書を読むのと、何らかの一つの「回答」を持ったうえで読むのとでは、理解の度合いが全く違うように思います。この点、貫さんの著書は一つの「回答」を持つ事ができますので、非常によかったです。

そのようなわけで、貫さんのこの本は上記にも引用しながら説明したように、まず「哲学」についての初歩的な疑問に対し一つの「回答」を示してくださる点で、おススメであります。もちろん、貫さんの考え方には学者さんによってはすごく異論もあるでしょうけれど、哲学を学び始めるにあたっての最初のハードルを突破できる点では、とても評価されていい考え方だと思います。またこの本は、主として西洋哲学のあゆみを、その時代の哲学者の考え方について説明する事により、比較的わかりやすく解説した本です。ただし、哲学者によっては考え方が難しいためなのか、必ずしもすべての解説がわかりやすいわけではありません。なのでこの本も、決して数日で読破できる内容では無いと思います。しかし、哲学の全体像を知るには、わが国ではもっともわかりやすい本の一つだと思いますので、哲学について新たに勉強したい方、学び直したい方には、おススメかと思います。