由里りんのぷらいべ~となお時間

白石由里が、たびてつの記録、ヲタの記録、その他ぷらいべ~と(笑)な出来事をいろいろと語るブログ♪

道徳教育としての国語教育の問題点

興味のある方のみ、どぞー☆

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息子の小学校の国語の宿題プリントに、こんな問題がありました。(注:原文をそのまま引用すると読みづらいので、成人の皆様が読みやすいように手を加えてあります。)

問:(   )に合う言葉を選択肢の中から選んで書きなさい。
 1.大きな声で(    )読む。
 2.楽しくて(    )笑う。
 3.綺麗な花を(    )見る。
【選択肢:(A)にこにこ(B)はっきり(C)ちらりと(D)うっとり】

模範解答にはこう書いてあります。
 1:(B)はっきり
 2:(A)にこにこ
 3:(D)うっとり

さて、息子は3番目の問に、「(C)ちらりと」と回答したのでした。

…皆様、どう思われますでしょうか? もちろん「(D)うっとり」は全く問題無く正解と言えますが、では「(C)ちらりと」はどうでしょうか? 私は、この回答でも、日本語の文章として間違っていないと思います。だから、正解と評するのが正しいと思います。
(※ついでに言うと、1番について、「(A)にこにこ」でも日本語の文章として間違っておりませんし、2番について「(B)はっきり」でも、決して日本語の文章として間違ってはいないのです。)

この問題文がまず根本的にまずいのは、「各選択肢は1回のみ使用可」という条件付けを付けていない事です。なので、この問題にたとえば「(A)にこにこ」を2回使用しても構わないということになります。これはこの問題文の致命的な不手際です(笑)。
続いて問題なのは、上述のとおり、たとえば3の正解となり得る選択肢が(C)と(D)の2つあるにも関わらず、模範解答には(D)のみとされていることです。すなわち、選択肢の設定の仕方に問題があると言えます。
ところで、なぜ「(C)ちらりと」と「(D)うっとり」では「(D)うっとり」の方が正解とされているのでしょうか? ここに実は、日本の国語教育の大きな問題点が垣間見えます。「ちらりと」よりも「うっとり」を正解として望ましいとする、問題作成者の思想がそこに垣間見えます。そして、この問題作成者の意図を了解できるような児童・生徒だけが、国語の試験の成績がより良いということになります。さあ、意味がわかりますか?(笑)

何が言いたいか? 「うっとり」の方が適切だ…と考える、教育側の「価値観」の問題が反映されているということなのです。

考えてもみてください。綺麗な花だからといって、うっとり見るように強要されるいわれはどこにもありません。それこそ「ちらりと」見たっていいじゃないですか(笑)。なにも「うっとり」とは見なくたっていいのです。「げんなり」と花を眺めたって構わないじゃないですか!(笑) 綺麗な花だからといって、おべっか使って「うっとり」と眺めなくたっていいのです。綺麗な花だって、機嫌が悪かったら「げんなり」と眺めたって、それは見る者の自由なのです! 人間には、人に迷惑さえかけなければ、自分のその時の気持ちに正直になる自由が本来あります。だから、別に人に迷惑かけてなければ、花を「ちらりと」眺めることや、「げんなり」眺めることは、全く問題はありません。

国語教育の著書が多い石原千秋氏が著書の中で「国語教育は道徳教育の面がある」ということを述べておられます。つまり、文部科学省、すなわち国家の考えが、綺麗な花を「うっとり」見るという思想を子どもたちに植え付けているという考え方ができるのです。実は、国語の問題には、すべてそういう側面があるのです。

石原氏によれば「国語の成績がよい子」とは、「大人びた子」だと言います。つまり、一段高い視点から「こういう回答さえしておけば、大人たちの望む正解が得られるだろう」という、どこか冷めた見方ができる子こそが、実は国語力がさほど無い場合でも、正解に到達できるということなのです。大人の出題の意図を了解できる、いわばズルい子は、国語の試験でよい成績が取れてしまいます。

そのような国語教育の側面をふまえて、あらためて国語の教科書に採択されている文章を眺めてみると、実に興味深いことがわかります。国語の教科書に載る文章というのは、実は極めて「道徳教育クサイ」ということなのです(笑)。こういう文章って、面白くないですよねえ?(笑)。しかし「道徳的な文章」を学ばせることが、果たして子どもたちの国語教育の向上につながるのか??? 私はそうは思いません。たとえば、いわゆるライトノベルであったとしても、私はそれが文法的に正しい日本語で文章構成的に優れた構成で書かれてさえいれば、立派な国語の教材になると考えます。もし、文法的に正しく、文章構成がきちんとした「岩波文庫になるような小説」と「ライトノベル」の2つがあれば、後者を教材として使った方が、おそらくは能率的に国語力がアップすると個人的には私は思います(笑)。なぜなら、イマドキの子どもたちが読んで面白いものの方が、興味をもって読みますし、国語力もつくのです。

ライトノベルなんて書くと、お堅い国語教師の皆様から反発を招くかも知れません。でも、考えてみてください。今でこそ国語の教科書には「小説」がたくさん載ってます。しかし、小説というのはそもそも、それが世に出回った当初は、軽薄な文章だと見なされていたわけですよ。文学自体がそういう見かたをされていたわけでしょ? 作家の二葉亭四迷なんて、今でこそ教科書に出て来る人ですけど、それこそ文学に偏見をもつ父に「くたばってしまえ」と言われて、それをペンネームにしたのが二葉亭四迷なわけでして(笑)。なので、ライトノベルだからといって、なめてはいけません。それが日本語として優れていれば、立派な国語の教材になるのです。あくまで個人的意見ですが、私はライトノベルよりも源氏物語の方が、相対的に教科書に載せてはいけない作品のような気がするんですけど(笑)。というわけで、そもそも、今でこそ国語の教科書に載るような文章も、それが発表された時代はそれこそ今でいうライトノベルとして見なされていた可能性だってあるのですよ。

さらに言えば、うちの息子はルビつきのマンガを多く読んできたため、そこいらの頭の悪い大人よりも漢字を遥かに数多く読む事ができますし(笑)、難しい言葉や言い回しも知っております(笑)。だから、ライトノベルどころか、実はマンガを教材にしても、うまく使えば国語力はちゃんとつくのです!(笑) だって、それこそ幼児なんて、たわいもない絵本から日本語を獲得するぢゃないですか! 絵本が良くてマンガがイカンというのは、「道徳的」価値観の押しつけにすぎないのです!

というわけで、教育現場で実際に使われている教材の問題点をたたき台に、日本の国語教育(※そもそも「日本語」と言わずに「国語」と称している点にすでに道徳的思想が反映されていると石原千秋氏は指摘しております)の問題点をちょい論じてみました。日本の国語教育は、ある一定の道徳的価値観に毒されており、思想統制的な面すらあるわけです。突飛な例えではありますが、たとえば、かの有名な「ごんぎつね」を読んで、「つぐないをしてきたのに、ごんが死んで悲しい」と必ずしも思う必要は無いのです。「みつかって撃たれたごんは間抜けだと思う」という感想を抱いたっていいわけです。だって、思想は自由なのですから!(笑)

教育者側の意図から自由になって、後者の感想に思い至る力がある人間こそ、自由な見方ができる優れた人物だと言える可能性があるだと私は思うのです。ただしその前提として、「大多数の人間が“つぐないをしてきたのに、ごんが死んで悲しい”…というような感想を抱くであろう」…という想像がまずできることが、日本社会で上手く生きて行くためには必要なスキルですけどね(笑)。