由里りんのぷらいべ~となお時間

白石由里が、たびてつの記録、ヲタの記録、その他ぷらいべ~と(笑)な出来事をいろいろと語るブログ♪

ラジオの魅力

産経新聞のサイトに、5/7付でこんなタイトルの記事が載りました。

トーク飛ばして録音 新型レコーダーがリスナー巻き込んで物議」

どういう記事かと言いますと、なんでも、某社が発売したICレコーダーが、FMラジオのトーク部分を飛ばして音楽だけを録音することができるという機能を搭載しているとのことです。そして、このことが一部の新聞で紹介されると“問題視”する声が上がったとのことです。
この記事を書いた記者は、記事の冒頭で「「ラジオ文化の破壊」など、パーソナリティーだけでなくリスナーも巻き込んだ議論に発展している。」と述べ、その問題視の声を載せています。それによると、某局のキャスターは「僕ら話すプロにとっては、バカにすんじゃねえぞ!」と憤り、某ラジオのパーソナリティーは「今日、この新聞記事を読んでね、ディレクターと私はね、本当にちょっと泣きました…」と番組内で感想を述べ、ラジオファンはネットで「ラジオの良さが半減どころか激減ですね」「逆にトークだけを録音する機能をつけろ」などと批判し、某大学教授は「この機能はラジオの命を殺すものだ」と憤慨した…とのことです。


さて、私はこの記事を読んで「そもそも憤るほどの事態なのか?」と思ったものです。

このレコーダーが発売されたくらいで、「ラジオ文化の破壊」「ラジオの良さが激減」「ラジオの命を殺す」ということになるのでしょうか? 本当にラジオが好きな人たちは、このようなレコーダーが発売されたからといってもうトークを聴かなくなるわけではないと思います。それに、そもそも元からトークが嫌な人たちは、最初からトークを無視して音楽だけを録音していたと思うのです。今回のこのレコーダーの機能は、単にそういう人たちの手間を軽減させるだけに過ぎないでしょう。要は、レコーダーの機能の問題では無いと思います。聴く人たちの問題です。以前から聴く側にはトークを無視する自由があったのであり、このレコーダーの機能は本質的な問題では無いのです。

もし仮に、このレコーダーの発売で「ラジオ文化が本当に破壊」されるとしたら、それは、造り手側の問題ではないでしょうか? このレコーダーの発売くらいでリスナーがトークを本当に聴かなくなったとしたら、それは「ラジオ文化」がもとから魅力が無かったということの露呈に過ぎないでしょう。つまり、レコーダーの発売とは無関係に「ラジオ文化は元から壊れていた」ということになるのです。もしも本当にトークが魅力的で、「ラジオ文化」がしっかりとしたものならば、このレコーダーの発売は問題では無いでしょう。

私自身は熱心にラジオを聴く人間ではありませんが、たまに聴くカーラジオのリスナーのトークで面白いものには耳を吸い寄せられることがあります。トークと絶妙にリンクする形で音楽が流される時、トークも音楽も相乗効果で耳に残る…ラジオの魅力ってそういうことですよね。テレビとは違い、音声のみに特化した形態だからこそ生まれる独特の魅力があります。本当にトークが嫌なら、そもそもCDを聴いています。CDに無い魅力があるからこそ、たまにラジオをつけてみるのです。それは、このようなレコーダーの有無とは全く関係ありません。繰り返し言いますが、本当にトークが嫌なら、そもそもラジオではなくCDを聴いています。ラジオ以外の選択肢があふれ、いくらでもラジオが無視できる時代にもかかわらず、ラジオが生き残っていることの意味を考えてみるべきでしょう。

このように考えてくれば、きつい言い方かもしれませんが、記事にあるような憤慨の声は「ラジオ文化に携わる人たちの自信の無さ」を露呈しているのではないか?…と邪推してしまいます。造り手側はこの機会に、自分達の仕事にどれだけ自信と誇りを持てているのかを考えてみるべきではないでしょうか?

「リスナーがラジオに接触する機会を増やしたい局側は、高性能のラジオ付きレコーダーの登場を歓迎する向きもあるようだ。」と記事内で記者は述べ、「音楽だけを聴きたいというリスナーのニーズはある」との某ラジオ局の声を紹介しています。これはきっと事実でしょうし、要は「元からトークが嫌な人たち」のことです。このような人たちのニーズに応えていくというのは、一つの前向きなやり方なのかもしれません。それによって増えたリスナーに対し、トークの良さを工夫してアピールするという方法もあり得るかもしれません。本当に「ラジオ文化」が素晴らしいものならば、やがて新たに「ラジオ文化」の良さに気付く新たなリスナーが現れる可能性があります。この時、このようなレコーダーの発売が全く問題ないということがわかるのではないでしょうか。