由里りんのぷらいべ~となお時間

白石由里が、たびてつの記録、ヲタの記録、その他ぷらいべ~と(笑)な出来事をいろいろと語るブログ♪

真の自由はルールの中にある

私の恩師が我々生徒に対しおっしゃっていた言葉である。

当時はまだ私も学童であったから、その意味がわからなかったし、その恩師が怖い教師だったゆえに、教師としてルールの遵守を説教するだけの言葉にしか聞こえず、私はその言葉には批判的な気持ちしか起きなかった。

ただし、誤解の無いように言っておくと、この恩師の言葉とは無関係に「ルールは守るべきもの」ということ自体は、あまり深く考えもせずに「あたりまえのこと」として私の頭に入っていた。だからといって、私が道徳心あふれる学童だったというわけではない。単に無自覚に従順だっただけの話であり、細かいところではたくさんルールは守っていなかったはずだから。

さて、ルールを必ずしも守っているわけではない私がこのようなことを言うのは極めて身の程知らず甚だしいわけであるが(たとえば、バイク運転時にはおそらくかなりの交通ルール違反はしているであろう)、でも、世の中にルールを100%守っている方はあまりいないであろうから(たとえば「法定速度」を守っている人がどれだけいるのか?)、私ごときが言っても大差ないと思うのであえて言わせてもらうならば…成人し社会に出てから、この言葉の本当の意味をいろいろな場面で自覚させられることが多い。

ルールを守らない人が多ければどうだろう? 自分がルールを破れば、迷惑する人間が出てくる可能性がある。言い換えれば、ルールを守らない人間のおかげで自分が迷惑を被る場合があるということだ。

ルールが自由を制限していると主張する人がいる。しかし、それは違う。ルールが無ければ、世の中は我がままな人間の勝手気ままが通る社会になる。それは、いろいろな人たちに迷惑をもたらし、まさに「自由」を制限することになる。

たとえば、ゴミを皆があたりに巻き散らかすとしよう。街は汚れ不衛生となり、悪臭が漂い中毒や感染症が多発し、私たちの行動を著しく制限することになろう。ゴミまみれで構わないと考える人間にとっては、一時的に「ゴミ捨てを規制するルールからの自由」がもたらされるかもしれない。しかし、上述の理由で、やがてはその人間は別の点から「自由」を奪われる。

たとえば、皆が咳エチケットを守らなかったとしよう。インフルエンザが大流行する。死者がたくさん出る。街の機能は停滞する。やがて、自分の窮地に、街の機能は自分を助けてはくれなくなる…。もし、自分が急病のときに、救急車が来なかったら? 病院が機能していなかったら? 食料が欲しいのに店が開いてなかったら? 物流が途絶えていたら…???

人が複数生きる社会、それは、各人が我がままを言っててはやがて共倒れになる社会なのだ。皆がルールを守るからこそ、真に「ルールの中で自由」に皆が楽しめる社会が実現する。

ルールを無視し、ネットで他者を攻撃する輩がいるが、結局はそれが、お互いのネットの自由を奪っている。問題が起きれば、規制が入る。あたりまえのことである。そこに気づかない人間がなんと多いことだろう。「自由」の意味を誤解し、わがままを尽くせば、規制がどんどん厳しくなるだけにすぎない。ルールの重視は、だからこそ声高に叫ばれるべきだろう。

ただ私は、「ネチケット」という言葉が生み出されたことには違和感を感じたものであった。わざわざ「ネチケット」という必要があるのか? その殆どは、社会一般における「エチケット」をわきまえていれば通用するはずのものであった。わざわざ「ネチケット」という言葉が生み出されなければならなかったという点に、この社会のそもそもの「エチケット」の低レベルぶりが露呈されていたというべきだろう。